Quotes
… gender is instituted through the stylization of the body and, hence, must be understood as the mundane way in which bodily gesture, movements, and enactments of various kinds constitute the illusion of an abiding gendered self.
Judith Butler in “Performative Acts and Gender Constitution: An Essay in Phenomenology and Feminist Theory.” Theatre Journal, Vol. 40, No. 4.
Findings
語りとジェンダー
フィリピン北部に広がる山岳地域で、現地NGOによる民話の調査にフォトグラファーとして同行させていただく機会があった。複数の先住民族の伝統を引き、多様な土着言語と生態系に対する豊富な知識は人々の生活に色濃く染み渡っている。
4日間をかけて民話の語り部を訪ねる中で、その多くが高齢の男性であることに気づくまでにそれほど時間を要しなかった。時折女性の語り部に出会うこともあったが、彼女たちの話はそれほど長くなく、すぐに男性に替わってしまう。私たちが耳を傾ける民話は、多くが男性によって語られ、世代を超えてさらに別の男性によって語り継がれてきたものだ。民話に聞き入る子どもたちには男女様々な性が入り混じっていただろうが、そのさらに後世に語りかけるのは、その多くが男性であった。そして私は、その民話に関心を持って聞きに行った、新たな男性の一人である。
「誰の話を聞くのか」という問題は、人類学的調査に限らずユーザーインタビューを含めた大小様々な定性調査につきまとう。例えばジェンダーに関しては、そこには①調査者と被調査者のジェンダー関係と②被調査者集団のジェンダーバランスという、主に二つの視点が存在する(もちろんそれ以外にもある)。人種や階級も含めた調査者・被調査者の「完全な均衡性」を実現することが極めて困難であるという前提に立った時、その不可能性に「自覚的である」こと以外に、我々にできることは何だろうか。調査に関わる者の男女比率や表記といった形式的な問題と、「配慮する」「自覚する」などの内面的な問題。両者が絡まり合った複雑な倫理は、きっとフィールドの中でこそ、その方向性が見出されるのだろう。
フィリピンでの人類学的調査が、いよいよ折り返しの時期に差し掛かる。インターネットの通じない山間の小さな村から都市部に帰ってきて、自身の調査フィールドを前にその倫理について考え直している。
Readings
上記のような出来事をきっかけに、大学院講義で読んだバトラーの著作などを改めて振り返っています。
ジェンダー・トラブル 新装版 ―フェミニズムとアイデンティティの攪乱
ジェンダーに関するカテゴリや規範が時代の中で形成され、身体や精神に介入していく様を分析した、フェミニズム/クィア理論の重要書籍。
“Matter” (=問題=物質)という言葉の二重性を踏まえ、「セックス」の言説構築と身体の物質性を論じた著作。
Butler, J. (1988). Performative Acts and Gender Constitution: An Essay in Phenomenology and Feminist Theory. Theatre Journal, 40(4), 519–531.
現代フェミニズム思想を代表する哲学者のジュディス・バトラーによる、1988年の論文。フェミニズム理論の立場から、ジェンダーというアイデンティティを身体の様々な身振り、動き、演技の遂行と反復によって時間の流れの中で構成されていくものと論じています。人類学理論のジェンダー関連講義で扱われました。
Updates
少し先ですが、英Royal Anthropological Instituteによるフィルム・フェスティバルが2023年3月に開催予定。参加者に対しては “Visual anthropology and speculative futures” というテーマを提示しており、マルチモーダルな方法で未来志向的な人類学のあり方を模索しています。
ストックホルム国際映画祭に、Nikon Short Film Awardsという最大60秒(!)の短編映像を対象としたアワードを新設。気になる・・・